私の生い立ち
(超暇な人が読むページ)

6. 昔の仲間を核にして作ったアムリタ食堂

そこでばらばらになった、元トムヤムのスタッフを集めなおしました。すでに独立して立派に自分の店を展開していた元仲間のケンちゃんの店(西荻ハンサム食堂)の飲み会で、久しぶりに会った内山さんに声をかけ、まだトムヤム2で働いていたコックのエさんを誘い、そしてゲームクリエータースクールの校長先生だった麿さんも誘い、永田さんと私の5人を核にして、準備期間ほぼ半年という超スピードで、2002年11月13日にアムリタ食堂をオープンさせました。店長は内山さん、コックはエさん(オープン当時は1人で全てやっていた!)。ホールに麿さん、そして新たなスタッフも加えて。

肝心の永田さんがすでに他の会社の役員であり多忙だったため、会社の代表取締役を、経営のケの字も判らぬ私が行う事になりました。まるでやった事の無い、どちらかというと不向きな仕事に無謀にも挑戦しなければなりませんでした。しかし、何故かこの仲間でお店を立ち上げる事について、失敗の文字は一度たりとも頭に浮かばず、絶対に大丈夫!と思えました。浮かんだ言葉は、トランプゲームの、ロイヤルストレートフラッシュ!ただその一言でした。

我ながらポジティブなバカパワーって凄いよなあ(笑)

32歳 経営がどうしても出来ない

社会奉仕系で日本の清貧を美徳とした我が家系を初めて恨みました。

わりと昭和の感覚だと思いますが、「良い行いさえしていれば金は後からついてくる」、「お金の話は人前でするといやらしい」と、半ば商人的発言と発想はタブーとして私は育てられて、社会のお金の回り方やルール、仕組みを全く判っていませんでした。被雇用者から雇用者の切り替えが全くできず、とにかく予算が立てられませんでした。走り出した船の上で、もう戻れない陸を振り返り、向かうべき陸も遠くに仰ぎ、一人海原でポツネンとした感覚に陥りました。しかし待ったなしの状況に本当にまずいと感じ自己啓発。子どもの頃からの価値観を塗り替える作業をしなければなりませんでした。。お金の話はしてもいいし、お金の話なくして社会は語れないということに、やっと気づけて、経営のスタートの始まりに立てた気持ちでした。

ただのタイ料理屋ではなく

アムリタ食堂を立ち上げる時にどうしても顕現させたかった事は、子連れでも大人の男と女が嬉しい本格的な店にするという事。当時、私が小さな子どもを連れて入れる料理専門店は東京にはほとんど無くて、ファミレスといわれる大手のチェーン店のみでした。主観で申し訳ないのですが、当時、ファミレスは飲食店として本格性にかける店の代表だと思い、本物志向の大人の男と女が感動できる場所ではありませんでした。恋人だった二人がそれまでは本格的な料理を食べに行ってたのに、子どもが生まれた途端にそういう店には行けなくなり、子どもに合わせてファミレスしか行けなくなった・・・そのシラケル状況に耐えられなかったのです。

本格的な料理屋というものは、そもそも大人が楽しむ場所なので、赤ちゃんを連れて行っても、子どもの対応なんて全くしてくれない店がほとんど。オムツ代えは便器の硬い蓋の上で行わなければならなかったり、場合によっては店員さんに煙たがられるし、こちらも気を使うし、安心して入店できる店は本当に有りませんでした。また、年配の先輩女性にも「そもそも子連れで外食なんかしなくていいのよ!家で保育しなさい!」なんて声も聞こえてきたり。そういう自分の経験で残念だったり悲しかった数々の思いを、自分の店では可能にしたかったのです。

更に、皆がタイ料理は辛いと言っていたけど、実はタイ料理にも辛くなくて美味しい料理が一杯あるってこともタイ人のお母ちゃんコックと一緒にいて私は知っていたので、それも皆に教えたいなと思ったわけです。

子ども連れのお客様

実際、アムリタ食堂は料理の美味しさと共にコンセプトも受け入れられ、あっという間に吉祥寺の人気店に仲間入り。予想通り、子ども連れのお母さんや家族にも多く支持してもらえました。

しかし・・・それについて後をたたないのは、子どもとどう向き合ったらよいか判らない若いスタッフと、子育てに慣れていないお母さんとの店内モラルに関する問題でした。 どっちが正しいとかそういう問題ではないのですが、お店の中での空間の共有の仕方には色々な工夫やお互いの深い理解が必要なんだなと今でも思い、今もなおこの問題は完全に解消されていないので、会社としても店としても努力のしどころです。

本来、子どもは泣いて当然、じっとしている時間が少ないのが当然。でも大人もゆっくりとご飯を楽しみたいし。そして店側としては、他のお客様との間をもつことや、店内のバランスや売上の事も考えなければならないというような事が細々とあるわけです。他店でも子連れ推進のサービスを簡単にやれない理由がよくわかりますが、アムリタ食堂はあえて、難しいサービスにこれからも挑戦していきたいと思っています。

私にとってアムリタ食堂とは

会社の経営は2番目の子どもがおなかにいるときに旦那様の麿さんに代わってもらいました。そして永田さんと一緒に作った株式会社アムリタから独立して株式会社キットゥン(恋しいというタイ語)という会社を新たに立ち上げました。そして3番目も生まれ、私の出産仕事が終わった事もあり、もう一度経営をやりたいからと、2年前にまた麿さんから代表の仕事を交代してもらいました。

会社としては11年、アムリタ食堂も今年で15年で、様々な伝説を残してきました。
店内でのライブ活動、姉妹店2店舗、イベントやフェスに参加したり、弁当屋をやってみたり、会社は色々な事をやってきました。 成功だけではなく、失敗も沢山ありました。その中で一緒に働いた仲間達が繫がり、独立していき、また戻ってきたりと、スタッフと共に会社も私も成長し続けています。
そして目まぐるしく色んな生き物(人)や思惑が動き、神様がわさわさと混在する多様性のあるこのお店を思うに、私にとってアムリタ食堂という店は、私が子どもの頃に遊んだ、あの大好きなワンダーランド、「我が家の庭」そのものだということに、この生い立ちを書いてみて気づきました。
父と母が笑って見守る庭で、人生は面白い!と思えたあの庭。そしてこれからも、ワクワクして生き物を観察していたあの庭のように、アムリタ食堂で繰り広げられる事が多様性に満ちていて有機的である事を熱望しています。そしてこれが、父とは違う形だけれど、私の社旗貢献なんだなあと最近は思えています。

最後に

エさん、内山さん、永田さん、麿さん、そぶちゃん・・・20年来の付き合いが今でもある中で、新たにまた強力な次世代が育って今を仕切っています。そして地味ですが、会社の基盤がゆっくりと確実に構築されています。これからも内外問わず新たな出会いがあり、ドラマがあり、各々の子ども達が育っています。独立したスタッフも、吉祥寺に来ると店に寄ってくれてご飯を美味しいといって繫がっていて、お客様にもそんな方々が沢山いて、アムリタのご飯を食べてた赤ちゃんがアルバイトで働いてくれる日も近い!(笑)まあ、アムリタ食堂を作ってひとまず良かったな、と思えています。そしてこれからも地味かもしれませんが、治外法権なちょっとはみ出し気味で面白い事をやっていきたいと思います!

タイ料理万歳!タイ国万歳!おバカ万歳!

落ち込んでも、悲しい事があっても、アムリタ食堂に来て美味しいタイ料理を食べたなら、ほっとして元気になってまた明日も頑張ろう!と思える。そんな場所をずっと続けていきたいです。

今回HP作成で「生い立ちを是非書いてください!出来れば長々と!!」と言ってくれ、根気強くお付き合いくださったホイちゃんこと穂井田さんにすこぶる感謝。影に日向にといつも支えてくれ冷静な判断をしてくれ校正もしてくれた旦那様の麿さんにも感謝。そしていつも現場で頑張ってくれているスタッフの皆々様にも感謝!お客様にも大感謝!そして、父と母に感謝。子ども達、友人・・・
そして・・・こんなに長い「私の生い立ち」を呼んでくださった貴方にも、お礼をいいたい!

コップンカー♪(ありがとう)

でも貴方!
ミーウエラーワーンマークパイナ!
(暇だね~っ!!)と!(笑)
合掌

2017年10月8日
安達亜紀(家坂亜紀)

私の生い立ち

1. 生まれたとこ育ったとこ

2. 我が家の庭は多様性ワンダーランド

3. この世界って色々あるけど、面白そう!

4. 19歳 父の影響と父との別れ

5. 30歳 たぶん、女として将来を考えた

6. 昔の仲間を核にして作ったアムリタ食堂