1968年6月7日、私は東京の早稲田南町で、社会運動家の父と看護婦の母の間に誕生しました。
年が8つ離れた姉の下に次女として生まれたので、誰にももまれず放任で育ちました。 3歳の時に父と母が、もっと子どもにとって自然環境の良いところへ住もう、と移住を決意し、神奈川県相模原市の’'少し田舎’に越してきました。ど田舎ではなく、‘少し田舎’の、庭付きの一戸建ての家でした。ごくごく普通の何処にでもあるような住宅なのに「亜紀ちゃんの家は動物園」と友達からは呼ばれるほど、色々な動物が庭ではひしめき合っていました。それもかなりユニークな感じで。
社会運動家の父、家坂哲男(63歳没)と私とリリー(犬)
父は家坂哲男といい、東大の経済学部在学中に、学生扮装を起こした黒幕とも言われ、戦後の日本で社会運動をしていた人間の一人でした。農地法改正、女性解放運動、地方巡業での執筆活動や講演が生業でした。地方自治の大切さなどを訴え、自らも自治会会長などをし実践していた人で63歳で亡くなる直前は偏差値の無い学校を作り、教育関係の仕事もしていました。
東京の早稲田南町に住み、姉と私の娘二人が生まれた頃に、警察の依頼か父の指紋を当時住んでいた借家の大家から盗み取られるという事があり、その頃から社会運動の活動は家族に及ぶ影響を思い知らされ、過激さがやわらいだと話していました。当時、敗戦後の日本は価値観が一変した激動の時代でした。
父の人柄はとても朗らかでありながら、人や環境など、そのものの本質を大切にする人で、表面的な過激さはない人でしたが、信念の人でした。私は正真正銘ファザコンだと思います。
大正15年(昭和元年)から昭和64年(平成元年)と、昭和時代を生きた人です。
左から姉(真理)と看護婦の母(文子)と私。
長野の女学校卒業後、地元の看護婦となり、長野の講演会で倒れた父と病院の看護を通して出会い、恋に落ち結婚。自分の仕事で人の生死に常に向き合いながらも、父が亡くなるまでは父を支え、、世のため人のためにと生きてきた人です。
結婚してから父の収入がままならないときもあり苦労をしたと思うのですが、本人は「一度も苦労だと思った事がない」と言っています。現在は84歳(2017年現在)になり仕事引退後、近所に住む友人達と田畑を耕したり、陶芸をやったりリズム体操を習ったりして、健康、健脳で暮らしています。
いつも笑いが絶えなくホスピタリティのある人ですので、彼女の回りにはいつでも人が集まり和みます。仕事は几帳面ですが、家に帰ってからの力の抜き加減、バランス力がとても良い人で、いつでもポジティブな発想の本当に尊敬すべき母親です。
8歳年上の姉は小さい頃から勉強が出来、運動も出来、大学時代にミスコンだった、いわゆる美人優等生で、私とはまったく正反対のタイプ。最終学歴は横浜国立大卒、沢山の教員免許を持ち、親と同じように社会派の志を持ち、新卒時から現在まで障害を持つ子どもの学校の教師をやっています。「趣味は仕事」という、いわゆる、熱血教師、正義の味方のような人です。
しかし、外人みたいな綺麗な顔してうんこ話が好きで、梅図和夫さんの大ファンで、サブカル好きで有ることから私は姉の事を『狂ったフランス人形』と呼んでいました。姉には本当によく遊んでもらいました。自慢の姉ですが、出来すぎであるために、私は反面教師で多少グレ気味に。