私の生い立ち
(超暇な人が読むページ)

4. 19歳 父の影響と父との別れ

父は本来良い家柄の育ちのようですが、3男であったせいか、のびのびと自由な発想もある人でいわゆるおぼっちゃんでした。社会運動をしながらの、職業名は著実業という、田舎では珍しい職業でした。その活動からか、よくご近所の方や、テレビで見る政治家さんも、父に困り事の相談や意見を求めるために相模原の家に来ていて、父はいつも朗らかに笑いながら朝まで呑み明かしてそういう方のお付き合いをするという、他人に頼られる人でした。 長女も私も、特に父からの影響は自然と強く、世のため、人のために働くという事は生きているうえで大切な事であるという感性は自然にもちあわせ、そしてユーモラスに生きる、という事も自然な思考回路?遺伝子としても受け継がれる気がします。

その父も桑沢デザイン研究所の2年生の時、私が19歳の時、脳梗塞で倒れ志半ばでこの世を去りました。葬式までの間、父が大好きだったシャンソンのレコードをかけ、大好きな父の死に顔を沢山デッサンしていた事を覚えていますが、悲しすぎて他の事は良く覚えていません。

父が死んだ時から、よく道で声をかけられるようになりました。 いわゆる、見える方いわく、「貴方のお父さんがあなたを守っています」だそうです。 自分ではよく判りません。

フリーター時代

学校を卒業しても、就職するつもりがひとつもなく、フリーのカメラマンを自分は目指すんだと思っていました。自分の部屋にも暗室を設けて、好きな写真を撮っては現像して作品のようなその練習のようなものを沢山生み出していました。その他、スポーツ行事の写真を撮って、それをテレフォンカードにして販売する会社の仕事もしていました。電車の時刻表を片手に日本全国を旅をし写真と旅の生活でした。髪の毛は短髪で、帽子をかぶり、男の子に見えるように工夫して、時にヒッチハイク、時に公園で野宿、温泉町の駅では、駅長さんが見かねて宿直室に泊めてくれたという想い出もあります。もちろん交通費は精算できたのですが、こうやってお金を浮かせながら、更にドキドキする事に出会いたかったんです。 働く事=興味の対象=楽しい!の一言でしたから他にも色々なバイトをやり貪欲でした。

フランス料理屋、デパートのディスプレイ、ファッションショーのフィッター、工場の梱包、などなど・・。唯一、ピンク系のアルバイと、八百屋のバイトだけは、面接で落ちて出来ませんでした。ピンクのお兄さんには「ここは君の来るところではない」と言われ、八百屋のおじさんには「君じゃあきゃしゃすぎて仕事にならないね」と言われました。

20歳 カメラマンにあこがれて

亜紀アルバム05.jpg

カメラの世界、自分で学ぶ事の限界をすぐ感じて、メニューの撮影会社に、初めて就職しました。

面接の頃の私は、シーニードオーコナーという女優にあこがれ、頭は丸坊主でした。 会社採用時に社長には「今はバブリーだからお前を雇った」と言われたのを今でも覚えています。そう、世の中はまだバブルの恩恵があり、派手な夢も、浮かれた話も、そこらじゅうにある時代でした。一見華やかなカメラマンにあこがれ、カメラマンの助手としてその世界に入り働きながら勉強ができ、仕事で美味しいものを食べられたので幸せでした。しかし3年経ったある日、私は自分が撮りたい写真がなんなのか全く判らなくなりました。それまでは、かっこいい、面白い、綺麗!だけでシャッターチャンスを選んできたのに、何故かそれだけでは物足らない気持ちが湧き上がってきたからです。

写真の中にあるもの、社会や人の心にあるもの、表面的でない深いものが私自身には何も無いような気がして。そしてある日、メニュー撮影で会社の撮影ルームに来ていたシェフの仕事、所作の神々しさを見た時に、料理の現場の世界に興味を持ちました。

 

22歳 タイ料理との出会い

当時、私は同じくカメラマン志望の女友達と吉祥寺の北町でルームシェアしていました。、 友達の希望で吉祥寺に住んでいたのですが、私はまったくのおのぼりさんだったし、普段は家の近所をうろうろする時間もなく、カメラの仕事や旅行に出るばかりで、全く吉祥寺を知りませんでした。

ある日、めずらしく吉祥寺で夕飯を食べようという事で、本町にオープンしたてのエスニック料理屋を見つけ、その友人と入りました。その店とは、株式会社飛行船という会社が営む、「トムヤム」というタイ家庭料理屋でした。何処の国の人だか判らない謎の白髭のおじいさんが店の入り口に立ち、呼び込みをしています。その姿はまるで白髪の怪しいカーネルサンダーズだ・・と思いながら、いかにも普通でない感じを醸し出していました。その店は、その怪しいおじいさんがタイから連れてきたタイの女性が、腕を振るう本場タイ料理の家庭料理店でした。奥から3番目のテーブルに座って厨房が見える壁側に座ったのを覚えています。頼んだのは、トムヤムクン、カオパ・・・あとは忘れましたが何品か。

その料理を食べたとたん!! 私の身体に電気が走り・・・ 「これは味の芸術だ~~~っ!!」と目を見開いて驚いた記憶があります。 19歳の時の、不倫関係の高校教師に連れて行ってもらった池袋のタイ料理屋では感じなかった感動的な美味しさ!! なんと、それは現アムリタ食堂のシェフ、Egさんとの味の出会いでした。その感動は何日たっても消える事がなく・・・ 私はしばらくして、カメラマンの会社へ辞表を出し、その店「トムヤム」で働く事にしました。それが私とタイ料理との本当の出会いです。

23歳 タイ家庭料理屋の店長に

その店は、まだまだオープンしたてで、メガネをかけたちょっと癖のあるお兄さんが店長でした。それが今も一緒に仕事をしてくれている会社の重鎮であり、パントマイマーの内山さんです。
あと、カーネルサンダースじいさんこと、久保のじいさんと、タイ人のおばちゃん(えさん、ディンさん)とタイに留学していたアジア大学の聖美ちゃんと、中華系タイ人のガイ君がいました。

このお店の中は一歩入れば日本でありながら、治外法権なタイそのものでした。美味しいタイ料理と外人と癖のある人達に囲まれ刺激的な環境に私の目はらんらんとしていました。タイの国の事はその場所すら知らなかったので、地図を見て、あいさつから、本を買って毎日独学し、コックさんにも教えてもらって、約2年ほどで日常会話は覚えられました。内山さんはパントマイマーなので、日本語でも大してしゃべらない人。もちろんタイ語をまったく話す気配もなく、タイ人のおばちゃんコックは、甘ちゃんでいい加減な私をいびりつつもだんだん私を信用して、頼りにしてくれるようになりました。日本人なら、少しのミスを言葉でごまかしが利くような事も、外人には全く通用しません。外人と仕事をする難しさでもありながら、仕事の本質を勉強するのにはうってつけの環境でした。

内山(後)、左から 私 エさん、ディンさん

入店してから1年くらいで会社が2店舗目(トムヤム2)も出すという事で、私は初代店長の内山さんからトムヤムの店長を引き継ぎました。今考えるとそれもバブリーのなせる業でしたね。飲食店の経験なんてたいしてない23歳の私が1年もせずに店長!?とてもはちゃめちゃな会社で・・・若い私達に仕事を任せてくださった社長の勇気には今でも感謝と尊敬の念で一杯で、あの経験がなければ今の私は本当に居ないと思います。

完璧にタイ中毒患者

毎日美味しいまかないを食べ、タイ旅行も1年に何度も行き、料理、文化、タイ人の国民性、考え方、すべてが本当に刺激的で面白すぎて、うなされた中毒患者のようにタイにのめり込みました。体裁ばかり気にするような日本人の生き方より、皆が思い切り生きているこの国の生き方が私にはあっているとも思いました。そしてあっというまに7年が過ぎました。。




1. 生まれたとこ育ったとこ

2. 我が家の庭は多様性ワンダーランド

3. この世界って色々あるけど、面白そう!

4. 19歳 父の影響と父との別れ

5. 30歳 たぶん、女として将来を考えた

6. 昔の仲間を核にして作ったアムリタ食堂